フォーのお店しげの自己紹介です!ちょっと長くなりました!スマホの人読みにくいかも

 

元々は、ロサンゼルスですし職人として働いていました! 

 

はじめまして、しげと言います。大阪生まれで、中学まで大阪育ちで、実は今日,

8月13日が誕生日です。42歳になりました!

 

つい最近まで、フォーのお店という飲食店をやっていたんですが、経営不振、実力不足のため、約5年の月日を経て、泣く泣く閉店しました。

 

shigeinla.wixsite.com

 

元々はロサンゼルスで寿司職人として、サンタモニカ、ハリウッド、ビバリーヒルズ、ダウンタウンと、結構いろんな場所で働きました。そして幸いにも裕福なお客さんに恵まれ、僕のつくるお寿司を目当てに遠くから食べに来てくれたり、はたまた、家族のパーティーやバーベキューなんかのプライベートなイベントにも誘われたり、本当にラッキーな寿司職人でした。

 

アメリカに行ったのは、自分のやりたいことを見つけたかったから、英語を喋れるようになりたかったからです。旅立ったのは2001年の3月、語学留学をきっかけとして、当時25歳でした。

 

アメリカに行く前は、完全歩合の営業をして、お金を貯めました!

 

それまでの2年間は東京で、フルコミッション(完全歩合制)の教材の訪問販売をして、お金を貯めました。いくつものバイトの掛け持ちを昼も夜中もしたりしましたが、面白くないのもやっていたし、何よりも長時間働いている割には稼ぎが悪かったので、バイト雑誌の「君も月収100万円も夢じゃない!」っていう募集に食いつきました。しっかり稼いでアメリカ行きのお金を作りたかったからです。

 

初月は基本給があってよかったのですが、2ヶ月目から本当に売れなかったら給料なしで、同期で入社した人も大抵やめていきました。(営業は拒否の嵐ですしね、、)同期って言っても、年齢はいろいろだったし、2、30万位の給料じゃ生活できないっていう、前職でもけっこう稼いでた人が多かったと思います。当時の僕は10万円ちょと位のお金でギリギリの生活でした。

 

で僕の2ヶ月目の成績は?ぜんぜん売れませんでした!けど、すごく頑張ってたので(本当に!)、社長が特別に7万円くれました。4万7千円の恵比寿の古いボロアパート(風呂なしですよ!今ちらっと恵比寿の古いアパートの相場をチェックしましたが、昔と変わってない!やっぱり東京高いー!)の家賃を払うのは遅れてしまいましたが、3ヶ月目にしてとうとう売れました!

 

それからしばらくして、中目黒の新築マンションへ引っ越し、その月の営業成績が悪くて給料が30万円位だと「やばい!少なすぎ!」っていう人に変身してました。実は大学を勝手に中退してしまっていたので、授業料を返してから、アメリカ行きの貯金をしてたのですが、それでも生活コストがかかる東京生活とはいえ、今思うと本当に荒いお金の使い方をしていて、とても反省します。今ならもっと貯めれるのにー!

 

初めは貧乏だった、けど自分のやりたいことが見つかった!

 

まーなんだかんだありながらも、無事お金を貯めて、アメリカへ飛び立ちました。当時の僕は全然しゃべれなくて、語学学校の超初級コースからはじめましたが、授業も完全な英語でさっぱりでした。ものすごーく恥ずかしいんですが、耳が慣れて英語が聞き取れるようになったり、少し会話ができるようになったり、英語の上達を始めて実感したのは3年くらい経ってからでした。

 

アメリカのお寿司屋さんで働くきっかけになったのは、あるお寿司屋さんに、皿洗いの仕事をもらいに飛び込みで行ったことでした。初めの計画では、1年で日本に帰国するつもりでしたが、英語が全然上達せず、もう1年頑張ろうと決意していたのですが、お金が底をつきかけていて、バイトして生活費を稼がなきゃいけなくなったんです。それと、月に一回は必ずどこか調子がおかしくなるポンコツの中古車の修理費も、災いしてました。

 

単純に英語がしゃべれなかったから皿洗いの仕事しかないと思っていたのですが、お客さんにサービスをしたらチップをもらえて、さらに給料をもらえることに気づいて、すぐにそのお店の皿洗いを辞めて、新しくバスボーイ(お客さんの食べた食器を下げる人)として働いたり、ホールで注文を取ったりと給料とチップを稼げるようになりました。残念なことに、毎日バイトで、英語の勉強をする時間は無くなってしまいましたが、まかないもあるし、生活はとても楽になっていきました。アメリカの生活が楽しくなり始めた時でした。

 

そして面白いのはこれからで、「手に職をつけたらどうかな?」と思っていた時に、ふと求人広告を見てみると、「寿司ヘルパー募集」っていう記事が!早速電話して、面接して、働くことになったんですが、もう初日からカウンターに立たされて(端っこですけど)、「今日は最低巻物3種類は巻けるようになること!」って、和包丁(握ったの初めて)を渡され、いきなり即戦力!このお店では、初めてカウンターに立たせてもらえ、包丁を触らせてもらえ、寿司職人としてのきっかけをつくってくれたのですが、夜だけ週3日のパートで働いていただけだったので、もっと上達したいと思った僕は、職人としてフルタイムで働ける次のお店を探し始めました。

 

で、ロサンゼルスのイエローページの日本食のお店に片っ端から電話して見たところ、見つけた!で雇われました!働いてみたら、もう僕の探していた理想のお店!お店で扱っていた全種類の魚のさばき方を教えてくれたり、料理長について魚屋に仕入れに付いて行ったり、ある程度したら、僕も一職人としてシフトに組み込まれていました!ここで初めて自分の技術の上達とともに、顔見知りのお客さん、常連さんが増えることの喜びと楽しみを味わいました。目指すは独立!自分のやりたいことが見つかった瞬間でした。

 

ロサンゼルスで、寿司屋で一旗あげてやる!

 

そして次のステップは、忙しいお店を経験するでした。そしてまたまた見つけました!ここでは、仕事がむちゃくちゃ早い店長、日本で若い時から京料理を経験した人、ハリウッド俳優を目指している英語が流暢な人、みんなそれなりにクセのある職人でしたが、全て僕が吸収したいものを持っている人たちだったし、だんだん忙しくなっていくお店だったので、すごく勉強になりました。まだまだ僕は2・3年目の職人でしたが、数ヶ月後、みんなと同じ配分でチップをもらえるようになり、毎週丸2日と半日の休みがあって(ロサンゼルスでは週休2日は結構当たり前)、毎月、日本円でだいたい30万円位の職人としての価値になりました。そして、もともと向上心はあったのですが、さらに、お金と時間のゆとりが出てきたので、いろんなデザート作りにも挑戦し始めました。

 

ただ問題は僕の英語力のなさでした。職人としては上達を実感して、とてもいい状態だったのですが、英語はあんまり上達してないのが実感。じゃ英語しかしゃべれない職場で働こうと思い立って、そして、見つけました!ハワイアンバーベキューのファーストフードお店。実はこのお店、数年前、仕事探しをしている時に、一度飛び込んだことのあるお店で、前回は募集していないと断られましたが、なんと今回は2号店を出すということで、タイミングよく募集中でした!

 

ファーストフードということもあって、みんな若くて一回りほど違う10代後半と20代前半の若者たちと紛れて仕事しました。しゃべるスピードが早い早い。レジは苦手で、いつも調理する方に逃げてましたが、アメリカの大学生や高校生と一緒に仕事できて、また2号店の立ち上げに関わることができて、とてもいい経験をしました。ここで1年ほどだけでしたが、英語だけの職場で働くことができました。

 

お客さんが付いてきた!よし、永住権を申請して、アメリカに住むぞ!

 

そして次の職場も新しく開店するお店で働きたいと思っていたら、開店前のお寿司屋さん、見つけました!このお店では、本当にたくさんのいい経験をさせてもらいました。開店時には、料理長を含め職人さんが5人ほどいたんですが、この料理長がちょっと頼りない人で大丈夫かなと思っていたのですが、案の定、マネジメントもダメで、オーナーと意見が合わなくなって辞めていき、他の職人も辞めていき、開店後数ヶ月して残ったのは、なんと経験3年ほどの僕一人。すぐにオーナーは、新しい料理長を入れてくれて、その料理長に僕を支えるように言ってくれました。そして僕のアメリカ永住権のサポートも、そのオーナーは承諾してくれ、さらに永住権の手続きをしてくれる良さげな弁護士も見つかり、あとは許可を待つだけとなりました。

 

永住権は、有名なスポーツ選手、論文を沢山書いて世界的に認められているような学者みたいな人以外の場合、(僕が永住権を申請したいのだけど、名目上)まずは雇用主(申請者)が僕の寿司の技術が必要だから、弁護士に申請書類の準備と申請手続きを依頼して、それを国に提出する形をとります。そして国が、僕がアメリカ人の雇用を奪わない、アメリカ人にはできない特殊な技術を持っていると判断されれば、永住権が降りるようになっています。で、この方法で申請すると、永住権をもらえるのにどれぐらいかかると思います?僕の知り合いをみているとだいたい6年から10年でした。この間にビザやパスポートの有効期限がきれて、不法滞在者になって、肩身の狭い思いをしながら滞在することになってしまうのです。

 

僕のカウンターの前には、毎日少しずつお客さんが座るようになり、嬉しいことに、僕にお任せしてくれるお客さんが増えてきました。当時の僕は、ロサンゼルスの有名店や話題のお店はほぼ食べ歩いていたし、いろんな種類のデザートも作れるようになっていたし、自分の料理を盛り付けるために陶芸なんかも始めていました。なんとミシェランの星を持っているシェフもきてくれたこともありますし、ビジネスのパートナーになろうと声をかけてもらうことも増えました。たった5年ほどで、自分が想像力を働かせてつくる作品を、楽しみにしてくれているお客さんがいる、そんな職人として最高の瞬間を味わっていました。「アメリカで、自分のお店を開けるぞ!」と期待に胸が膨らんでいた時でした。

 

色んな嫌な出来事が重なると、力が抜けて、頭がボーッとなる!

 

ところが、2008年が、僕にとって人生最悪の年になるとは。年明け早々、なんとオーナーが、お店を売却したことが発覚。そのことを弁護士に伝えると、なんとその弁護士も重要な手続きを期限内に国に提出していないことが発覚。その重要な手続きとは、永住権の申請費にさらにまた追加料金を払って、国に申請処理を早くしてもらうための手続きで、その手続きさえしてくれていたら、新しくサポートしてくれる雇用主を探すだけで、一からやり直さなくて済んだのに。全てがダメになってしまいました。

 

その後、「過ぎた時間は取り戻せなくても、申請費用は取り返せるかも」と知人が小さな(僕にとっては全然小さくないですけど)案件を扱う裁判所を教えてくれました。そして、その知人の助けを借りつつ、僕個人でその弁護士を訴えて裁判所に行きました。結局その弁護士は出頭せず、後ほど裁判所は僕が支払った申請費用を全額返金するよう通達してくれましたが、返金ゼロ。その後、僕の被害に哀れんで(報酬目当て?)正義の味方を気取った弁護士が現れ、僕を騙した弁護士と交戦してくれようとしたのですが、金にならないと思ったのか、最後には、僕の案件で使ったコピー代や郵送費と称して、膨大な金額を請求をしてきました。また知人に回収専門の弁護士を紹介され、会ってみると、すでにあの悪徳弁護士の資産状況を調べ尽くした様子で、やっぱり金にならないらしく、挙げ句の果てには、「私たちが永住権の手続きをするから、早くサポートしてくれる雇用主を探すべきだ!」と、そんなこと誰よりもわかっている僕に、クライアント欲しさに煽る始末。自分のミスでこういうことになったわけじゃないのに、被害者なのになんでこんな辛い状況に追い込まれなきゃならないのか、英語で法律のことなんて分からなくて不利な状況だから信頼できる弁護士が必要なのに、腹立たしくて、悔しくて、辛くて、2008年の年初から8月の夏まで、本当に疲れて、力尽きる感覚、何も考えれなくなっていました。

 

裁判には勝ったけど、、、 

 

裁判の準備をしていたある日、久しぶりに母親からメールが届きました。内容は、近く祖父がガンの大手術をするらしく、僕のことを気にしてる、落ち着いたら一度顔を見せに帰国することを考えてみたら、との内容でした。いつも僕の意思を尊重してくれて、あまり指図をする母親ではないので、「帰国するのを考えてみたら」という文面は、本当に大きな手術をするんだろうなと感じました。その時の僕は、あの渡米した2001年から一度も帰国できず、家族にも会っていませんでした。両親が早くに離婚し、僕たち三人兄弟にとって、祖父と祖母は近所に住んでいて、とても身近な存在で、旅行に連れて行ってもらったり、ご飯を食べに連れて行ってもらったりと、小さい時からとても可愛がってもらいました。「落ち着いたらすぐ帰るからってじいちゃんに伝えといて」と、母に返信しました。まだ永住権をサポートしてくれるオーナーも、手続きをしてくれる弁護士も見つかっていませんでした。

 

後日、祖父の手術が成功したことを聞いて、胸をなで下ろしました。そして、またまた朗報が、僕をサポートしてくれる人が見つかったのです!そのサポーターは老人ホーム施設を経営していて、そこに食堂があって、そこの料理人として、申請すればいいと言ってくれました。しかも別にその施設で働かなくてもいい、ちゃんとオーナーとして全面的にサポートするけれども、もし僕が他で勉強したかったり働きたいところがあれば自由にすればいいよと。今まで僕のことをずっと応援してくれていた、あるお客さんからの紹介でした。残るは、信頼できる仕事をちゃんとやってくれる弁護士を探すだけとなりました。

 

日本に帰ろうと決めた時、、、

 

ところがしばらくして、あのリーマンショックが起こり、そしてまたしばらくして、老人施設のオーナーを紹介してくれたあのお客さんから食事に誘われました。行ってみると、あの老人施設のオーナーがリーマンショックの痛手を受けて、施設を手放さなきゃならなくなったと聞かされました。

 

あの母親の祖父のメールを思い出しました。僕ももうダメだと悟りました。11月の中旬ごろだったと思います、母親に12月下旬に帰国することと、家の部屋が空いていたらしばらくお世話になりたいと伝えました。

 

帰国までの約1ヶ月、本当にたくさんの人に、色んな場所でお別れ会をしてもらいました。たくさんの人に惜しまれて、僕は幸せ者だなーと実感しつつも、半分ぼーっとした上の空な状態でした。

 

帰国の日、皆んなに見送りはいらないと断っていたので、数人だけに見送られて、ゲートをくぐり、7年と9ヶ月ぶりに日本に向かう飛行機に乗りました。離陸した瞬間、シャックリをした時みたいに肩が揺れ始め、止まらない大量の涙が溢れてきて、今までこんなに泣いたことがなかったんですけど、「いいよ、泣いちゃえ」みたいになって、それからしばらく、けっこう長い間泣いていました。

 

 

 

なんか長くなっちゃいましたけど、今2017の8月、あれから8年ほど経って、今はすごく心身ともにいい状態です!(正直、上の帰国の飛行機の文章を打ってる時、また(まだ)涙出てきました、でも、うんあの時辛かったよね〜みたいな自分に優しく同情する感じの涙)本当に素直にいうと帰国後二、三年は、やっぱり悔しくて、「なんで俺がこんな目にあわなきゃならないんだ!」みたいな被害者意識が強烈に残っていたし、僕の苦手な、日本の重力(?)、組織の上下関係とか村意識とか日本の常識とか、そういうのとかに向き合い方を調整しつつ、改めて日本の国や人の凄さ美しさとかに再発見しつつ、家族の支えや色んな運命的な出会いに感謝しつつ、「今とても幸せ」です!

 

下の写真は、帰国の準備を始めた頃のリビングルールからの写真です。お皿たちは僕の作品ですよ。お皿はカラフルにせず、シンプルな黒か白で。これにお寿司を盛れば、お皿もお寿司も最高に引き立ちます!なんかこの写真、全てのものが小さく写ってますね、長皿とか55センチ位の長さなんですけど、、、エアコン古いすぎー、、、f:id:lalalashige:20170815123740j:plainチラッとキッチンの様子

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